サイズ:H27cm 素材:ヴェネチアンガラス ※モニターの発色の具合によって実際のものと色が異なる場合があります。
アンティック ヴィンテージ店のお取り扱いは 中古品の世界ですが お熟成アインのは ピカピカの 新品です。
マルチ色被せ 手工芸品 100%手作り 世界最初のクリスタル ヴェネツィアンクリスタッロ。
18世紀 ナポレオン戦争の荒廃を受け 千数百年の歴史を閉じようとしたのを惜しみ 19世紀 ムラノ島に職人養成学校を興し 復興を成し遂げたサルビアティ工房。
ヴェネツィアンクリスタッロの中興の祖との 位置づけ。
そして今や フランスのエスプリも 加味して。
清水で買う 焼き物の 99%は 清水焼ではないと言っても 過言ではありません。
銘は 「清水」であって 清水焼ではありません。
本当の清水窯(現在 窯の1部は 丹波に移っています。
)で焼かれたものは お湯呑1つで 2〜3万以上もします。
同じく ヴェネツィアで売られている ヴェネツィアンクリスタッロも ほとんどが 量産された お土産品です。
本当の100%手作りの手工芸品は ムラノ島に有る4軒の工房と フランスに移ったサルビアティ工房だけです。
奇しくも 1000年の歴史を同じくするボヘミアクリスタルも ブランクから作れる工房は 4軒しかありません。
ヴェネツィアン・グラスの発祥は、13世紀中世ヴェネツィア共和国が東方諸国のすぐれた産物をヨーロッパ諸国に独自供給し東西貿易の中心地となる中で、その中でも最も珍重されていたガラス製品を自国で生産すれば多大な利益を得ることが出来ると考えガラス製造に乗り出したことに始まる。
しかしトルチェッロ島からは7世紀ないし8世紀のガラス工房跡やガラスが発見されているし、文献上も10世紀末にはガラス製造のことが登場する。
ヴェネツィアン・グラスの正確な起源は謎に包まれている。
ヴェネツィア共和国は当時最も進んだ技術を持っていたアンティオキアと協定を結び、原料や燃料さらにはガラス職人までをもヴェネツィアに移した。
これによりローマ帝国-イスラム時代から発展してきたガラス技術を取り入れ、応用することでヴェネツィアン・グラスの技術は発展を遂げていった。
しかし元々原材料や燃料を自国で産出できない土地柄であるヴェネツィア共和国は、ヴェネツィアン・グラスの技術が原材料の豊富な国々に漏れ コピー製品が作られることを恐れたため強力な保護政策を取った。
1291年には全てのグラス工房のムラーノ島への強制移住を決定。
グラス職人やその家族・販売者を島に住まわせ、島外に逃げる者は厳しく罰し功績を挙げたものには手厚い褒賞を与えるという法令を発令した。
この政策には、火事を防ぐためという名目もあった。
これにより狭い島の中に工房が密集したため技術の切磋琢磨が進みグラステーブルやシャンデリア、鏡など様々な名品が作られた。
一方でこのような厳しい保護政策の下でも逃げ出す職人はおり、各地に散らばりガラス技術を伝えた。
このような職人達の教えにより他の地方で作られたヴェネツィア様式のグラスをファソン・ド・ヴニーズ(ヴェネツィア技法)と呼ぶ。
ルネサンス期の15世紀〜16世紀にはその繁栄は頂点に達した。
ヴェルサイユ宮殿の「鏡の間」はムラーノ島から連れ出された12人の職人が作成したと言われている。
この時代に一番力を注いだ技法がエナメル装飾で、貴族達は華麗な絵付けの施されたガラス製品を競うように買い求め、エナメル絵付けの施されたガラス製品を持つことがひとつの社会的ステータスとなった。
またこの時代にソーダガラスに消色剤を加え透明度の高い無色透明のガラス(クリスタッロ)の製法が確立された。
これは他国には無い技術であり、王侯貴族の間で高く取引された(その精巧な技術による薄さは毒を入れると割れるという噂も手伝って王侯貴族の間で取引されたとも言われる)。
成形前のガラスの塊を冷却水につけて模様を生じさせるアイス・ガラス(ア・ギアッチョ)もこの時期に開発された。
レース・ガラスの発明もこの頃で、以降のヴェネツィアン・グラスの代表的な装飾技法となった。
ただし、この時期はガラス職人が法の網の目をかいくぐって海外に流出した時期でもある。
これによってヴェネツィアン・グラスの技法と様式が海外に広められたとも言える。
17世紀・18世紀には、ヴェネツィア風のガラス製品がヨーロッパ中で大流行した。
現在でもムラーノ島では多くの工房が軒を連ね、豊かな伝統技術を親から子へと受け継いでいる。
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マルチ色被せ 手工芸品 100%手作り 世界最初のクリスタル ヴェネツィアンクリスタッロ。
18世紀 ナポレオン戦争の荒廃を受け 千数百年の歴史を閉じようとしたのを惜しみ 19世紀 ムラノ島に職人養成学校を興し 復興を成し遂げたサルビアティ工房。
ヴェネツィアンクリスタッロの中興の祖との 位置づけ。
そして今や フランスのエスプリも 加味して。